尾崎豊は真面目すぎた。
尾崎のデビューからの2枚のアルバム「17歳の地図」「回帰線」を聴くと良くわかる。
尾崎の魅力は社会に対する真面目な怒り
尾崎はとにかく真面目である。一般人が、「まあそういうもんだよ世の中は」というふうに半ば諦めと共に妥協するようなことが、全く妥協できない。
真面目に学校に怒り、先生に怒り、世の中に怒ってしまう。
心の中で人々が「おかしいよな」程度に思っていることを増幅して怒るのだ。そして、その「純度100%」とも言える怒りが、同じように世の中に、周囲の大人や社会、そして自分自身に常にイライラしている思春期のティーンエイジャーたちに刺さるのである。
自分達の言葉にならないモヤモヤとした怒りを、言語化して代弁してくれるのだ。尾崎がカリスマとして崇められるのにこれ以上の理由はないだろう。
真面目がゆえの生きづらさ
しかし、その真面目さゆえに彼は自分を追い詰めていったといえる。
前述したように普通の人は「まあいいか、世の中そんなもん」と言ってスルーしていくところだが、尾崎は看過できない。ある意味、一般の人々の間では妥協して社会の仕組みに組み込まれていくことが、「成長」として一般的には捉えられているが、尾崎はそのような妥協には徹底して抗い、「成長」をしていったものは汚い「大人」として唾棄すべき対象とみなしていた。
この真面目さは、尾崎の最大の魅力であるが、同時に弱点でもある。
尾崎の世の中に対する怒りを作品に変えるエネルギーにするやり方は、自分自身の内面から湧き上がってくるものをぶつけていた初期衝動の発露であった。しかし、「尾崎豊」が売れていくにつれ、自己表現の手段であったはずの自らの音楽が、商業主義ベースの音楽活動に飲み込まれてゆくのだ。尾崎豊というカウンターカルチャーであったものが権威側に移っていったとも言える。
社会に組み込まれていく自分自身
「先生」や「大人たち」に象徴される「社会」に怒り反発していた自分が、レコード会社をはじめとした尾崎で食べている人たちの経済活動の一部として組み込まれてしまった。社会の歯車の一部として、締め切りまでに曲を完成させ、アルバムのリリース日までに歌入れをしてプロモートをする。そんな生活が、尾崎を追い詰め、やがて薬物の世界に転げ落ちてしまう要因となったのだろう。
尾崎は、その真面目さゆえに素晴らしい作品を生み出し、皮肉にもその真面目さゆえに世の中をうまく生きられず追い詰められてしまったのかもしれない。
今もなお輝きを放ち続ける尾崎豊の音楽を聴くとそう思わずにはいられない。